幼児期

わたしはごく普通の夫婦のもとに誕生した。一人娘で大切に育てられた。

習い事もバレエ、公文、ピアノと楽しく通っていた。小さい頃から周りに可愛がられ、よく近所のおばあちゃんお姉ちゃんたちにお世話になった。友達も多く、時には外でやんちゃに遊んでいたような活発な女の子だった。半面内に静かに思いを秘める一面もあり、二面性があった。いわゆる不思議ちゃんで自分はよく言えば誰にでも柔軟な子供だった。

お母さんはわたしの服を作ってくれた、お父さんはよくキャンプに連れてってくれた。3人では海、山、動物園、水族館、ドライブ、キャッチボール、バトミントン…たくさんたくさん遊んでくれた。

何の問題もない一見ごくごく幸せな家庭。でもわたしの性格はどこか個性的だった。大きな特徴は「共感覚」だった。共感覚は幼い子供に稀にみられるとも言われるが、わたしの場合はそれが社会人になってもずっと続いていくものになる。わたしの症状は、人にそれぞれに色がついて見えるということ。他にはひとり遊びが得意で自分の世界観がとてつもなく強かったことだった。活発ではあったが、どこか内に気持ちをため込む性格で主張がなく、周囲に合わせてしまう傾向があった。幼いながらに人とは感覚と感じ方が違うことを自覚し、なぜかそれは隠さなくてはならない自分の秘密になっていた。両親には特にいい子でいたい自分がいた。わがままも言わないし当然そんなわたしの症状についての相談をするはずもなかった。

病気の種は何も当事者だけが作りだすものでもなく、当事者に携わるすべてが要因になり得る。わたしの場合は両親の影響が大きかっただろう。わたしが自己主張しない分両親が決め、両親が悟り、レールをひくような形になっていたのは自然の流れ。これもわたしを愛しての両親なりの愛だった。自然とそれは主従関係となっていく。

両親は複雑な環境で育った。追い出され、わが子にも会えなかった母と自分がすべて正しいと意見を固持し、自分に威厳とプライドを無駄にまとわせる父のもとで育ったわたしの父。心から信頼し尊敬し、大好きだった唯一の存在である父を若くして亡くし、疎遠の母親にはお金をたかられてきた母。父と母は、母親の愛を知らずに昭和に育った。父は高卒、母は大学を中退している。母は剣道に青春を捧げ全国レベルの世界を渡り歩いてきたが、実家の経済状況が厳しくなり諦める。

誰しも過去に傷がありその中で自分の進む道を選択してきて今がある。わたしの両親だって同じなのだ。当事者に起こった身の内は、必ずどこかに通じていて、その糸からも影響を受けているのだ。親から子へ、は自分の親も含めてみんなそう。そして子育ては誰もが0年生、しかし母からの愛の記憶がない2人はもっと分からないことはあったことだろう。

そんな中父は仕事が大事な時期で、家を空けることが多かった。実質母ひとりでわたしを育てていタ。相談したいこと、甘えたいときだってきっとあっただろう。でも23歳大学中退を経て母親になった母には頼れる場所はなかった。加えて、父の父親には手を出され自分の母親には金銭の要求、友人との関わりも疎遠になった当時の携帯普及のない時代には孤立を極めただろう。

それでも母はわたしの存在を疎ましく思ったり、ぞんざいに扱うことなく大切に我が子を愛し育てた。

わたしは順調に育ち小学校に上がるころには手のかからない聞き分けのいい子に育った。

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