わたしは小学校4年生から大学まで、剣道一筋のエリートで一流の道を歩んだ。ブランド学校、結果がすべて、全国レベルのタイトル、優勝以外は話にならない、そんな勝負師の世界に15年間身を置いて生きてきた。学業も服務も体力面も、校内1.2を争うレベルを維持し続け、誰よりも早く起き朝練をし誰よりも真面目に律した生活を徹底した。常に自分を評価され続ける環境で、常に注目される立ち位置。1番になることが自分の価値のすべてになっていた。小学校卒業と同時に親元を離れ、中学から高校まで社会との繋がりとは無縁の世界で育った。
背負ってきた色んな人の期待と作られ縛られた環境に心が疲弊したんだろう。ずっと誰かの支配下にあった監獄のような高校卒業と同時に、少しづつわたしは本来ありたかった自分と対峙していくことになる。この頃には剣道に対する熱はなくむしろわたしの中で重荷になっていた。それでも剣道の世界以外を知らないわたしは就職したかった気持ちを胸に秘めて、監督と母の選択した剣道の一流大学に進むことにした。わたし自身も今までの環境が染みついてしまっていたと思う。親の気持ちを尊重したい、両親の理想の自分でありたい、ブランドと自分の価値を示す指標が欲しい、一流大学の推薦という評価に値する価値、本心はそんな理由で大学に進んだのだ。月12万当時満額の有利子付の奨学金を借りてまで入学する価値はわたしにはなかった。よく言えば従順、悪く言えばイエスマン。
大学は案の定、レギュラーとか試合とか戦いの精神は0。見せかけのやる気と先輩から目を付けられないひたむきな取り組みで誤魔化して。でも今までお世話になった人たち、両親には理想の自分でいたい。ただ戦いたくない。当然そんなわたしがレギュラーに選ばれることもなく、たまに本気を出してしまうと評価されてしまうことに嫌気がさして、周りから見たら不思議な人だったと思う。両親はそんなわたしの心の変化は知らず、大学での活躍も期待していただろうに。大学で初めて男性の存在が身近になり、束縛される人生から物質的な自由が生まれた。外に出られる、買い物に行ける、遊びに行ける、交際ができる。もちろん楽しかったけど、偏った生活からの一転は自分を知る前に転がり込むにはリスクがあった。色んな心のバランスが崩れた。精神疾患は自覚なく幼いことから存在していたものの表面化はしていなかったが、大学2年の冬にその芽は開いたのだ。過食嘔吐という形で。
実際、この過食嘔吐はスイッチが切れたように突然現れた。理想の自分であり続けられないことを許せない自分と、今まで優等生として生きてきた自分が国家公務員や一流企業など、両親の思い描く自分以外になる自分を両親が受け入れてくれるはずがないという恐れも支配した。
そんなわたしはまともな就職活動の必要がない剣道の推薦枠で実業団で入社をした。だが、仕事も剣道も過食嘔吐のことで頭がいっぱいで、そのせいで人付き合いや人と食事に行くことも苦痛で我慢ができなかった。仕事の業務内容は営業がメインで人を無理やり契約させるような気がしてわたしにはストレスでしかなかった。単純に仕事内容も嫌で終業後の練習も何一つ意味を見出せなくてやる気もない。わざと倒れて体調が悪いことを周りにアピールしたり、自分が可哀そうな身の内だと共感してもらう理由を付けて、結局居場所を自分から消して卑怯な退社の仕方をした。辞めた後の後先なんて何も考えない、社会に馴染めなかったのだ。
突然退社したわたしは両親にどう思われるかの不安から音信不通を選んだ。当時は精神がとことん病んでいた。過食嘔吐は現象に過ぎなくて、特殊な環境と両親との生活、他社との交友を経験しない長い期間で知らないうちに蒔かれてしまった種が芽吹きだしていた。アダルトチルドレン、PTSD、解離性同一障害。わたしは幼少期気が付けば潜んでいた自分じゃない何者かを隠せなくなっていた。そして今みたいに病気として認知していない当初は、自分が人と違うということの恥じらいがなにより引け目だった。そんな状態では、他人のことも避けるようになっていった。親友も友人も恩師ももちろん身内も。わたしは誰にも干渉されない環境に自分で自分を追いやった。同じ環境で育ってきた仲間たちと自分を比較してしまって、惨めな気持ち恥ずかしい気持ちになるから。
そして孤独は症状を加速させていくのだった。
病気の陰には必ず引き金になった種がある。その種を見つけて原因を探し、取り出してリハビリするのはすごく辛い道のり。目に見えない種の見つけるのは、方法もわからずその分100%の原因の特定も難しい。方向性が合ってるのか不確定な不安も相まって治療しているのにさらに不安定になることもしばしばだ。
わたしは今、主人という大切な人生の相方を見つけ、民間企業の正社員として働いている。でも元気になったから結婚できたのでも就職できたのでもない。病気と闘っているときにわたしが掴んだ宝物である。闘病生活は得るものが本当に多かった。その分手放したものはあったけど、それは必要なものでリハビリ代と一緒だったんだと思う。