小学3年、通っていたバレエ教室が潰れたことがもあり、母の中学からの恩師である先生に声をかけられ剣道を始めた。人の頭を叩くことなんでできない、と言っていたわたしだったが、両親が剣道をやっていたこともあってかわたしは人よりセンスがあった。上達や飲み込みが早かった。
わたしも段々と勝負という概念を自覚できるようになり、母はいち父兄から指導者の立場になった。母が指導者。それはこれからのわたしと母の関係、父を、みんなを巻き込んでいく大きなきっかけとなっていく。自分が極めていた道、道半ばでその道を諦め不完全燃焼だった目標に関して再び熱が入るきっかけになった。一切の妥協はなかった。それはわたしが求めている世界ではなかったが、いつの間にか恐怖と強制に縛られる環境になった。
わたしは剣道界隈では知名度がある母の娘。みんな特別な存在としてわたしを意識していたことは間違いがない。取り組みもみんなとは違った。学校が終わったら剣道、みんなが帰っても居残り練習。休日は母に連れられ強化練習。剣道、剣道。そんな毎日だった。大会に出るようになってからはさらに指導に拍車がかかった。そのうち学校行事より練習や大人の大会の見取り稽古、試合、遠征となり交友関係も剣道関係に偏って、遊んでいる時間は与えられなかった。テレビでよく見るアスリートの親からの熱い指導。全く同じ境遇だった。
一流の取り組み、一流の道具、ブランドものの恰好、すべてが一流のものであることが普通でわたしはどんなにお金をかけられていたのか大人になってから知る。それは父と母の感覚の違いにも大きくひずみを及ぼすのだ。母は見返りなくわたしの剣道生活にお金をはたいたが、父は常識をわきまえる人だった。そんなにこだわらなくてもいいもの、自分たちの生活の身の丈に合ったもの、遠征費にしても監督の競馬代を支払う意味への疑問など。わたしの剣道時代では一般の人には理解できない規則はたくさんあった。父が不信に思うのは普通の事だった。でも当時の母には理解しようという想いすらなく、ただただレベルの低いアマチュアの愚かな考えで我が子の一流の道のためには必要なことと疑うことはなかったのだ。
母の剣道への教育は一線を越えていたと思う。真夏の道場を閉め切って、さらにジェットヒーターを焚いて高温にし、その中で胴着に防具の過酷な環境を作り、わたしは吐くまで稽古を続けさせられた。いや、吐いて泣いても後ろから蹴飛ばされ死亡減の嵐。今の時代では考えられない子への指導だったと思う。部内試合で格下に負けたときは泣いて謝った。家に帰ってからもずっと負けた自分を責め、自分の部屋から「許して、許して」を泣き叫んだ。たった小さな道場の同期との試合で負けただけの小さなこと。わたしは負けても自分はお母さんに認められることを確認したかったのだ。わたしは無条件に愛されたかった。でも負けた自分では価値がない。そんな寂しくいつ捨てられるか分からない不安を嫌というほど突き付けられた。頭を心に焼き付けた。わたしは常に勝者であって賢く懸命でなくてはいけない。そして母の言うことは絶対で、愛されるためには母の理想でなくてはいけない。幼く頼りは両親しかない子供にとって親というのは偉大で絶対なのだ。
父もわたしへの母の異常な教育には薄々気が付いていたであろう。でも母を止めることはできなかったのだ。母のわたしへの愛は100%緩いではないと思う。愛の形が歪んだのだ。父もそれは知っていたから。きっとわたしの家族の崩壊はお互いの愛が強すぎるあまりの崩壊とその結果の心の病だ。母のわたしへの愛。父の母と私への愛。そして私が両親に対して抱える愛されたく愛したい愛。ただ嫌い合うだけの暴力なら、複雑にはならなかった。愛するが故にそれぞれが交差したから過酷な人生になったんだ。
愛が過ぎれば、愛が愛を喰う