わたしは中学から親元を離れて下宿生活を送った。剣道の素質があり県の1番を獲ったわたしはスカウトを受けたのだ。中学3年の山形全国大会優勝のメンバーに抜擢され優秀な監督のもとに引き抜かれたのだった。もちろんわたしの意志はそこにはない。母が言った。
「可愛い子には旅をさせよ」
父はまだ幼い小学校を卒業したばかりのわたしの越境には反対していた。そこまでして剣道を極め、本人が希望してもいないのに早すぎる自立や家族との時間を手放す必要があるのかと。わたしはどちらでも良かった。ただ期待の大きい自分に対する母の想いには答えてあげなければいけない気がしていた。わたしの価値は剣道の強さと自立している立派な娘であることだから。厳しかった母だけど、まだこの時のわたしにとっての母は絶対で嫌われたくも裏切りたくもない存在。
両親は車で山形までわたしを送ってくれた。一緒に生活を共にしたのはわずか13年間。記憶に残るのは3年生くらいだとしたらわたしにとっては剣道生活を過酷に送った3年間くらいのあっという間な家族生活だった。ところどころに普通の家族だったころの記憶があるが思い返すにはまだ時間がかかるのだった。わたしが主に思い出す記憶は辛かった記憶、本当の自分の気持ちを押し殺しながらも直向きに真摯に剣道と私生活に邁進する記憶だった。そんな記憶ばかりでも両親と離れて知らない大人たちに囲まれた世界で日本一への道のりを歩くのは、寂しくて心細かった。涙が枯れるなんて嘘かというくらい絶え間なく泣いた。たくさん泣いた。別れるときは心が張り裂けるくらい心臓がキュッとなった。一度だけ電話越しで父の鳴き声を初めて聞いた。離れて間もないわたしへ下宿先の電話機にかかってきた父からの電話。幼ながらに相当に苦しかった選択であり、母の決断にも苦渋の同意、いや半ば無理やりの同意をせざる得なかった辛さがあったのだろうと思う。
ホームシックというのは恐ろしいもので、心の負担は身体に現れた。中学1年生でおねしょをするようになった。お世話になっていた下宿先の娘さんから馬鹿にされたり、周りの大人からチヤホヤされていることが気に食わなかったのか、怪我をしても「構って欲しいからやってるんでしょ」と言われ相談できる大人からわたしを遠ざけたり。娘さんの宿題を押し付けられたり。ホームシックと相まってメンタルは相当ズタボロだった。でもそんなことは両親に相談もできず孤独だった。わたしは実力があっても、すごく控えめで気弱だし、認識のあるものと本気で勝負することが苦手だった。勝負師に向いていない性格を無理やり人を変えて挑んでいた気がする。特に部内や身内、先輩、後輩でも気が引けるほど優越を付けて仲間を蹴落とすことが苦手。お世話になっている身で、どこぞの知らない他人がいきなり家族の中に入るのだからわたしは肩身が狭いのに加えてこの性格。言い返すこともないし、兄弟がいないわたしに誰かと喧嘩するなんで考えもなかった。自分の意見を言えないことがきっと相手の気持ちを逆なでしていたのではないかと今は思う。そして自分の両親がいきなり現れた同学年の子供にやさしくしたり、構っているなんてきっと寂しさや不安もあったろう。
ホームシックは長く続いたが人間慣れるもので、徐々にくるしくならないような気持の抑え方や心の準備ができるようになっていった。父は思い出の持ち物や写真を送ってきてくれたり、年に2回ほどの帰省の度に好きな音楽を音楽プレーヤーに入れてくれたり。そやって遠方から暖かさをくれていた。でもこれは愛を感じられる応援でもあり、さらに寂しさを自覚することで嬉しくもあり逢いたい甘えたいという気持ちとの闘いであった。
数か月たったあと下宿先の両親やおばあちゃんは、わたしが辛い様子に気が付いていたようで、下宿先の娘さんの教育とわたしへの配慮から別の下宿先にうつされるのだった。