剣道に明け暮れる3年間であり親元を離れて生活する寂しい3年間だったが、普通の中学生が体験できないような生活や経験は非常に自分の人生の貴重な宝になったと思う。遠征や大会を通して全国各地を巡り、各土地々の気候や伝統文化、観光地やグルメ…これは当時は感じていなかったが恵まれており相当お金をかけてくれた両親の苦労と父の我慢もあったろうなと感じる。正直訪れたすべての記憶が鮮明にあるわけではないし、もちろんメインは試合や練習だったが監督や保護者の方の団結と信頼関係も強固なものだったこともあって辛さもなんとか乗り越えていけたろうと感じる。
競合校として名を馳せていた中学ではあったが、わたしたちの代は特に注目を集めていたと思う。それは中学3年の最後の全国大会がホーム山形で行われるからだ。わたしが監督にスカウトされた理由も山形で行われる3年後の全国大会で優勝するためのメンバーとして活躍を期待されていたから、わたしたちの代は特に勝負への意識が強くあったと思う。どんな大会でも1位以外は敗北と同じ。そんな世界が当たり前だった。
3年生の夏、市大会、東北大会を無事優勝で駆け抜けとうとう迎えた全国大会。わたしたちは取材を受け密着されるほど注目を集めていた。決勝。対するはずっと苦手にしていた対戦相手との対決。正直わたしの対戦相手は自分が苦手意識をもつタイプ。それまでチームのポイントゲッターとしてのわたしの活躍は常に評価されるものがあったし周囲の信頼もあった。だがここでわたしは敗北をきした。一瞬のことのように試合は終わった。泣き崩れ、悔しさより懺悔が圧倒的に勝った。これまで支えてきてくれて越境して寂しい思いまでして苦労したであろう両親の気持ち。他の保護者への申し訳なさ。いつも専属でバスの運転をしてくれて結果の報告を楽しみにしているドライバーさん。ここまで育ててくれた親でもあり師恩師でもある先生。すべての人への恩返しと苦労が報われたという証拠の金メダルが自分の敗北によって灰になった気がしていた。
わたしは個人では力を発揮しない、団体が得意の性格であった。それは性根にあって自分が目立ちたい、意地でも勝ちたいとはあまり思えず誰かの為に自分を犠牲にするタイプだったから。勝負師には向いていない。こんなシビアな世界でいながら、気持ちとモチベーションはいつも自分で頑張って作り出していた。若干それが自分の本性であるような気がした時期もあったが、大きくなればなるほどこれは違和感と辛さになってくる。要は他者への共感力が高すぎて自分がなくなってしまうタイプなのだ。
そんなわたしだ。当然自分の気持ちなんかより他者の気持ちが100%。その人達の想いを考えて辛くなるのは当然だ。それでも取材は受けなくてはいけなくて。ただただ辛かった。
たくさん泣いたのは覚えている。強く印象に残ったのはあの母がギューとただ何も言わず抱きしめてくれたこと。その時も泣きそうな母の顔に余計苦しくなったことを覚えている。きっと母は責任感の強い人だ。試合後保護者の方々に頭を下げていたんじゃないかと思っている。母は最期の大会に関しては何も言わなかった。その時、少し不安だった。わたしはもう期待されず、いい子でも優秀な子でもないと見切られるのではないかと。でも抱きしめられたときはわたしへの愛情を感じたのだった。反対しながらも娘を愛し、寂しかったろうが応援し続け資金をやり取りしてくれた父にもただただ申し訳なさと、自慢の娘でいられない辛さがあった。そのあとの立ち直るまでわたしはどうやって過ごしたのだろうか。その記憶は不思議なほど皆無なのだ。何をもって引退をしたのか。どういった私生活を送ったのか。考える間もなく行くと決められていた高校に進学していたのだった。