中学時代№2

恩師との出会いと存在

中学時代の3年間、親もおらず剣道日本一のためにわたしを引き抜いたのは学校所属の監督ではなく他校の教員だった。愛情深く、熱心かつ情熱のある監督だった。他から見たら相当厳しく見えただろう。パイプ椅子が飛んできたり、バチで殴られたり、ひっぱたかれたりと当時はまだまだ愛の鞭が普通に受け入れられていた時代だった。

それでも慕ってついていったのは「信頼と愛」が伝わったし、父兄との関係性も良好だったからだと思う。我が子をこの人に預けても大丈夫だという信頼感は先生の魅力と人間性があったからだ。わたしの孤独も分かっていながら、決して特別扱いはせずただ見守り育ててくれたような気もしていた。

濃厚な濃い時間を過ごした恩師との絆は今でも続いていてたまに東京でお会いすることがある。孫もできてすっかりおじいちゃんの顔。みんなそれぞれ環境も変わって時の流れをしみじみと感じる。剣道の師としても人間性としても大きな存在に支えられてわたしの全国へむけた道のりは切り開かれていったのだ。

剣道まっしぐら

夜は部活動の後に出稽古や夜稽古があった。夜9時くらいまで剣道に明け暮れる日々だったが今思い返すとよく弱音や反発もせずに励んでいたなと感じる。両親のいないわたしは本当に周りのサポートに救われていたんだろうと思う。送り迎えや生活環境、食事や病院、洗濯の仕方、生きるために必要なことはすべて両親ではない大人たちから教わった。甘えられもせず、たまにうるさいと思う指摘にも反抗するわけにもいかず、常に身内の安らぎはなく人の目があって規律正しく生活していることを迫られたような気がしていた。思い返せば休みの日って何してたんだろ、というほど無だった。寂しい時、辛い時幼い私の何もない休日は何をして過ごしていたのだろうか。勝手にお出かけもできないし、お金もないし、剣道以外の付き合いもないし。

いっても休日という休日はなく、学校が休みの日は練習試合や遠征がほとんどだった。今思うととっても閉鎖的な環境で関わる人も剣道関係のみ。教育的にはどうだったのだろうか、と疑問に思う。

中学校で鍛えられたのは、自立と勝負の世界の厳しさのメンタル面の修行が一番大きかったと思うが突出して記憶に刻まれている恐怖がある。吐いて吐いてそれでも強制されたこと。食事だった。特に遠征先の宿泊となると朝と夜の食事、練習に出ればお昼の弁当。最初は特に練習より何より食べれなくて苦労した。時間もゆっくりなんて食べてられない。時間がさまってくるほど早くしろという、周りのプレッシャーでもっと喉に食べ物が詰まって通らなくなる。水で飲みこんでも腹に溜まるだけでお腹がいっぱい。苦しくなって吐いてしまうばかりの日々が続いた。ある意味一番の暴力だったとわたしは感じている。吐けば周りに迷惑をかけるし、大人たちの目も仲間の目も痛い。残飯は許されることのない過酷なものだった。小さい頃から小食で食に興味のなかったわたしはまずここで大きく躓いたのだ。アスリートは身体を作るために食べることも練習の内というが、やり方があまりに悲惨だったと思う。そのうち練習試合や遠征先で出される食事を目にしたり想像すると、吐き気も震えも覚え喉がキュッとなる症状が現れた。もちろんそんなことは言えない。食べられようにイメトレまでしだすようになっていた。恐怖に打ち勝つことを努力するうちにわたしは食べられるようになっていった。わたしは剣道の実力はあっても、きっと伸び伸びと自由に勝負を楽しむ部活動のレベルがあっていたと思う。性格的に温和で優しくてのんびりマイペースな女の子だったから。それが幼少期に植え付けられた支配される感覚と恐怖心には従うという本能が本当の自分を押さえつけてしまっていただけだ。素のわたしがこんな過酷な環境と指導に耐えられたのは、どこかで自分を無理くり変えなければ生きてはいけなかった。今でいうとほとんど環境は虐待されて育ったと思う。